1. HOME
  2. 浪清山 浄願寺
  3. 親鸞聖人

親鸞聖人

知る-西尾市浄願寺

お問い合わせ 0563-59-6711

浄土真宗の開祖として知られる親鸞聖人のご生涯は波乱万丈でした

親鸞聖人のご生涯

承安3年(1173) 親鸞聖人は、平安時代も終わりに近い春、京都は日野の里で御誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範、母は吉光女と伝も言われるが不明。
養和元年(1181) 9歳 伯父の日野範綱にともなわれて、天台宗の慈円和尚のもとで出家・得度され、名を範宴と改められた。比叡山にのぼられ、主に横川の首楞厳院で不断念仏を修する堂僧として二十年間ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
建仁元年(1201) 29歳 比叡山では悟りに至る道を見出すことができずついに下山され、京都の六角堂に百日間の参籠をされ、尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰がれた。そして95日目の暁、太子の本地である救世観音から夢告を得られ、京都東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられた。そして法然聖人のもとへ百日の間通い続け、ついに「本願を信じ念仏する身」となられる。
元久二年(1205) 33歳 法然聖人の弟子となられてからますます聞法と研学に励まれ、法然聖人の主著である『選択本願念仏集』を写すことを許され、さらに法然聖人の真影を図画することを許され、このとき綽空の名を善信と改められた。(この頃、法然聖人の開かれた浄土教に対して旧仏教教団から激しい非難が出される。)
承元元年(1207) ​35歳 専修念仏が停止され法然聖人や親鸞聖人など師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞と名のられ、非僧非俗の立場に立たれた。この頃、三善為教の娘・恵信尼さまと結婚され、男女六人の子女をもうけられ、在俗のままお念仏の生活を営まれた。
建暦元年(1211) ​39歳 流罪を放免される。
建保二年(1214) ​42歳 妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(現在の茨城県)の小島や稲田の草庵を中心に、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。
元仁元年(1224) ​52歳 浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生の大著『教行信証』を著された。
貞永元年(1232) 60歳頃 関東での二十年の教化を終えられ、妻子を伴い京都への旅につかれた。
嘉禎元年(1235) ​63歳頃 帰洛され、しばらく五条西洞院に居住された。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長二年(1263) ​90歳 11月28日(新暦1月16日)親鸞聖人は三条富小路にある弟尋有の善法坊で往生の素懐を遂げられた。

浄土真宗の教え教章
仏壇の荘厳
お焼香の作法