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Q.仏教って何?
Q.お釈迦さまってどんなお方?
Q.お経には何が説かれてあるの?
Q.浄土真宗ってどんな宗教?
Q.親鸞聖人ってどんなお方?
Q.『正信偈』には何が書かれてあるの?
Q.蓮如上人ってどんなお方?
Q.浄土真宗では、厳しい修行をしなくてもいいの?
Q.浄土真宗では先祖供養をしないとわれるけれど、
                                                              仏教は先祖供養のためにあるのではないの?
 
Q.合掌や礼拝はお祈りではないの?
Q.お念珠にはどんな意味があるの?
Q.お焼香は何のためにするの?
Q.お仏壇に飾るお花や灯明には、どういった意味があるの?
Q.お仏壇にお供え物をするのは、仏様やご先祖様に捧げるためではないの?
Q.おりんはいつ打てばいいの?
Q.お坊さんや住職さんって何をする人なの?
Q.お寺って、何のためにこんなにたくさんあるの?
Q.浄土真宗でのお寺には、どうして御守りも御朱印もないの?
Q.浄土真宗のお寺に、聖徳太子の掛軸があるのはどうして?
Q.浄土真宗のお寺に、お釈迦さまの像がないのはどうして?
Q.人間、死んだらどうなるの?
Q.「御同朋・御同行」って、どういう意味?
 
 
Q.私は真宗門徒ですが、四国おへんろにも行きますし、般若心経も唱えます。
                                                                               それはいけないことなのですか?
Q.神社や他宗でお参りする時、私は真宗門徒なので「南無阿弥陀仏」と言って
                                                                         お参りしますが、それでいいですか?
Q.ご質問お待ちしております!
浄土真宗について「知りたいことあれこれ」はありませんか?
お答えできる範囲でしか答えられませんが、お勉強させていただきます!
ご質問、お待ちしておりま~す♫
 
Q.仏教って何?
A.仏教とは、今からおよそ2,500年ほど前、お釈迦さまが私たちの根本的な苦しみを解決する道をお示しくだ
  さった教えです。お釈迦さまは、あらゆる生き物は 、年老いて、病にかかり、死んでいかなければならないと
  いう苦しみから逃れることができずにいると気付かれ、私たちの苦しみの根っこにある生老病死という大問題
  を解決する道を求められたのです。そしてご修行の末ついにその道ををさとられ仏のに成られたました。
  つまり仏教とは、釈迦牟尼仏という仏様の説かれた教えであり、私たちが仏に成らせていただく教えなのです。
Q.お釈迦さまってどんなお方?
A.お釈迦さまは、今からおよそ2,500年前、日本がまだ縄文時代であった頃、現在の
  ネパール南部(インドとの国境近く)に居城を構えていた釈迦族の王子としてお生ま
  れになりました。
  お釈迦さまが誕生された七日後にお母さまが亡くなられ、そのせいか、お釈迦さまは
  幼い頃より物思いにふけることが多く、青年期には深く生死について考えるようにな
  りました。
  ある日、お釈迦さまがお城から出かけられた時のこと、老人と出会われ「老苦(老い
  の苦しみ)」を知り、病人と出会われ「病苦(病気の苦しみ)」を知り、死者と出会
  い「死苦(死の苦しみ)」を知り、そしてある日、修行者と出会われて「自分の進む
  べき道はこれだ!」と、29歳の時に出家を決意され、妻子や王子の身分などすべて
  を捨ててお城を出られたのです。
  そして6年もの間、死に至るほどの難行苦行をされたのですが、苦を追求するだけで
  はダメだと気付かれ、苦行を捨てられ菩提樹の下で禅定に入られて、ついに仏の悟り
  を開かれたのでした。お釈迦さま35歳の時でした。
  それから45年間ひたすら布教伝道に尽くされ、不安の中に生きる人たちに対して、一人一人に合った法を説いて
  ゆかれました。
  そして、お釈迦さま80歳の時のことです、信者から食事の施しを受けられたのですが食中毒になられ、サーラの
  木の下でご入滅なさいました。
Q.お経には何が説かれてあるの?
      A.仏教聖典には大きく分けて三つあり、①お釈迦さまが説かれた教え ②仏教徒が守るべき規則
        ③お釈迦さまの教えに対する解説 で、それらを総称して「お経」と呼んでいます。
        私たち真宗門徒が大切にしているお経は、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』
        の三つで、これらは総称して「浄土三部経」と呼ばれ、親鸞聖人はその中でも特に『仏説無量寿経』
        こそ真実の教えであるとお示しくださり、この経典をもって浄土真宗の宗旨とします
        この『仏説無量寿経』は『大経』ともよばれ、阿弥陀如来の「すべての生きとし生けるものを救う」
        とご本願が説かれてあり、私たち凡夫(煩悩にとらわれて迷いから抜け出ることのできない者)
        を「必ず救う、われにまかせよ」とお誓いくださっているお経なのです。
 
Q.浄土真宗ってどんな宗教?
A.浄土真宗とは、約840年前にお生まれになった親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、親鸞聖人によってあきらかにされた真実
  のみ教えにみちびかれ、阿弥陀如来のみこころを聞き、阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、阿弥陀如来
  の功徳の一切がおさめられたそのお名前「南無阿弥陀仏」とお念仏をさせていただく宗門です。
  これによって来世には阿弥陀如来のお浄土に往生させていただき真のさとりをひらかせていただく、そして、再び
  迷いのこの世に還り来て苦悩するする人々を阿弥陀如来の浄土へとみちびく仏とならせていただくのです。
  つまり「浄土真宗」という宗名には、「浄土から来た真実の教え」と「浄土に至る真実の教え」という二つの意味
  があるのです。
Q.親鸞聖人ってどんなお方?
A.親鸞聖人は、1173年(平安時代末期)に、藤原氏の流れをくむ貴族として京都にお生まれになれました。
  幼くして母を亡くされ、9歳のとき叔父に伴われて京都青蓮院(天台宗)の慈鎮和尚のもとで出家得度され、以後
  二十年間、比叡山で学問修行に励まれました。
  しかし、どれほど厳しい修行をしても心は清らかにならず、仏の悟りをめざして励めば励むほど、煩悩はなくなる
  どころか、見えてくるのは自身のみにくい心ばかりでした。
そして29歳の時、比叡山を下りられ聖徳太子ゆかりの六角堂に百日間参籠
されていた九十五目の明け方のこと、救世観音菩薩(聖徳太子)の示現を受
けられ、すぐに六角堂を出て、当時、お念仏のみ教えを説いておられた法然
聖人の草庵を訪ねました。
それから来る日も来る日も法然聖人のもとに通い続け阿弥陀如来のおこころ
を聞かれ、そしてとうとう阿弥陀如来のご信心(他力信心)をいただいて、
お念仏を申す身にさせていただいたのです。
その後、親鸞聖人は恵信尼さまとご結婚をなさいましたが、聖人35歳の時
のこと、時の権力により念仏の弾圧を受けて流罪の身となり、妻子とともに
越後(現在の新潟県)へと赴かれました。
それから五年間、越後で布教につとめられ、流罪が放免されると今度は常陸
(現在の茨城県あたり)へ移住され、約二十年間、関東の地で他力念仏の教
えを説き広められました。
親鸞聖人62歳の頃、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を執筆するた
め京都へ帰られ、またその他にもたくさんの著述をしてくださり、1263
年に九十年のご生涯をとじられました。
(こちらにも概略が載ってます)→
Q.『正信偈』には何が書かれてあるの?
A.『正信偈』には、浄土真宗の教えの要が凝縮して説かれてあります。
  まず、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と親鸞聖人ご自身の阿弥陀如来への帰敬の心が述べられます。
  次に、「法蔵菩薩因位時 ~ 難中之難無過斯」までは、『仏説無量寿経』に基づき、阿弥陀如来について説かれ、
  また、お釈迦さまが阿弥陀如来の救いについてお示しくださったところを説かれています。
  そして、「印度西天之論家」から最後までは、インド・中国・日本の七人の高僧方の教義を示して阿弥陀如来のご
  本願が脈々と相続されたことを説かれます。
  最後には、救われる縁のない私たちをみな平等に救うと誓われた阿弥陀如来のご本願を疑いなく聞いた人は、みな
  同じお念仏をよろこぶ身となって、阿弥陀如来の浄土に生まれさせていただき仏と成らせていただくのです。です
  からこの真実の教えをどうか聞いてくださいと説かれてあるのです。
  (七高僧とは、インド の 龍樹菩薩・天親菩薩、中国 の 曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、
         日本 の 源信和尚・源空(法然)聖人  です。   
Q.蓮如上人ってどんなお方?
A.蓮如上人は、本願寺第八世宗主で、中興の祖と称されています。
  1457年(室町時代)、蓮如上人43歳の時に法灯を継承され、親鸞聖人の御同朋・御同行の精神にのっとって
  平座で仏法を談合され、親鸞聖人のみ教えを誰にでも分かるようにやさしく説かれました。中でも、ご門徒に向け
  たお手紙『御文章』を著して積極的に伝道を展開されたことで、浄土真宗のみ教ええは急速にひろまりました。
しかしその教化は比叡山(天台宗)を刺激し、蓮如上人51歳の時に大谷本願寺は
破却されてしまいます。を逃れて近江へと移転された後、越前(現在の福井県)
吉崎へ赴かれ、多くの人びとを教化されました。
蓮如上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、や
がて門徒たちは武装して一揆を起こすに至りました。蓮如上人は、この争いを鎮め
ようと吉崎を退去され、河内(現在の大阪府)出口に移られ、その後、京都山科に
赴いて本願寺の造営に着手され、ついに念願の御影堂の再建を果し、次いで阿弥陀
堂など諸堂を整えられました。
そして1499年、85歳で山科本願寺にてご往生なさいました。
Q.浄土真宗では、厳しい修行をしなくてもいいの?
A.浄土真宗以外の仏教では、例えば滝に打たれたり、断食をしたり、山を駆け回ったりと肉体的に厳しい修行をし
  たり、難解な問答を繰り返して精神力を高めたりと、様々な行をして仏の悟りを開こうと自身が努力をします。
  しかし浄土真宗では、そういった行を積み重ねて、自分の力でもって悟りを得ることはできないと教えられます。
  このことを最初に教えてくださったのは仏教をお説きくださったお釈迦さまで、今の時代は修行をするのに適して
  おらず、どれだけ肉体を痛めつけようとも、それだけで悟ることはできないと説かれました。
  まず、仏道修行をするにあたって修行者には守らなければならない決まりがいくつかあり、例えば生きものの命を
  奪ってはならないとか、嘘をついてもダメだし人の嘘を容認してもいけない、などといったものです。
  しかし私たちは、多くの命を食べながら生かさせてもらっていますし、時には嘘をつかなければ人付き合いもでき
  ないような世の中に生きています。
  そんな仏道修行をすることもできず、自分の力ではどうにもならない私たちを見捨てずにはおけんと立ち上がって
  くださったのが、阿弥陀如来といわれる仏さまであります。
  浄土真宗では、その阿弥陀さまの慈悲のおこころを聞かせていただき、阿弥陀如来のご信心(他力の信心)をいた
  だくことによって、阿弥陀如来のお浄土に往生し仏とならせていただくのだと説かれます。
  これは一見すると簡単なようにも見えますが、その阿弥陀如来のおこころを少したりとも疑わず、自分の心を一切
  あてにせず、ただただ阿弥陀如来のお力にお任せするということを聞きひらかせていただくということは、とても
  とても難しいことで、親鸞聖人は『正信偈』の中に「難の中の難」と説かれています。
  ですから浄土真宗では、「修行をしなくてもよい」のではなくて、「修行することのできない私を救ってくださる
  弥陀如来のそのおこころをいただく」という、私に唯一可能な成仏道を説いてくださってあるのです。
Q.浄土真宗では先祖供養をしないとわれるけれど、仏教は先祖供養のためにあるのではないの?
A.仏教が死者供養のためというイメージは古くからありますが、仏教を説いてくださったお釈迦さまは、死者のため
  に説法をされたことはありません。
  親鸞聖人のお言葉にも、「私(親鸞)は、亡き父母のために、いっぺんたりとも念仏を申したことはいまだかつて
  ありません(意訳)」とあり、たとえ親であっても死者のために仏教を用いることを否定されました。
  とは言っても、先人への畏敬と、それにともなう宗教儀礼はとても大切なことですから、正しい理念をもって先人
  を敬いたいものです。
  この親鸞聖人のお言葉は、「南無阿弥陀仏のお念仏は、先祖供養のための道具ではない」とのお示しです。
  そもそも「供養」というは死者の冥福を祈るということで、「冥福を祈る」とは冥界で迷っている人の幸福を祈願
  するということです。
  しかし、迷いの世界にいるのは私たちの方です。ご先祖が冥途で迷っていると決めつけ、私の力でもってご先祖を
  幸福に導いてやろうというのは、厚顔すぎるのではないでしょうか。
  今、私が、こうして生かさせていただいているのもご縁でつながった生命の連鎖であり、ご先祖あっての私です。
  阿弥陀さまのお力によってお浄土へ往かれたご先祖が、この私に願い続け、伝え続けてくださっていことは、
  「どうぞ阿弥陀さまのおこころをいただいて、阿弥陀さまのお浄土に参らせていただき、再び会える世界に来るの
  だよ」と「南無阿弥陀仏」のお念仏をすすめてくださっているのです。だからこそ、今、こうして、私と浄土真宗
  とのご縁が結ばれているのです。
  私がご先祖のために願い・祈るのではなく、仏となられたご先祖が私にかけてくださっている願いを聞かせていた
  だくことが、何よりの供養となるのです。
 
打ち方は、勤行の頭で二音(二打)、間では一音(一打)、終わりに三音(三打)打ちます。
他宗においては、仏前に礼拝する前におりんを打ち、仏さまなどに自分がお参りしていることを
知らせるということをするところもあるようですが、浄土真宗では、勤行のとき以外でおりんを
打つことはしません。
なぜなら、阿弥陀さまは常に私に寄り添って片時も私から離れることなく、たとえば私が寝てい
る間もいつもいつも私にはたらき続けてくださっているので、こちから呼ぶ必要がないのです。
Q.合掌や礼拝はお祈りではないの?
A.合掌は、インドから伝来した敬礼法で、礼拝とは、仏さまや菩薩さまに対して恭敬や信順の意を
  表す行為です。
  ですから、こちらの願いを聞いてもらうためにすることでなければ、会釈やお辞儀とも違います。
  仏さまの前で合掌礼拝するというのは、そのみ教えに会わせていただいた者の最も基本的な姿勢
  であり、最も尊い姿ではないでしょうか。 
Q.お念珠にはどんな意味があるの?
A.念珠(数珠)の起源は、お釈迦さまの時代以前にまで遡るそうですが、ハッキリしたことは
  わかっていません。
  古いインドの言葉では「アクシャ・マーラー(インド菩提樹を糸でつないだ物という意味)」
  といい、お釈迦さまお持ちになっていたと伝えられています。
  日本へは飛鳥時代にお経と一緒に入ってきました。
  念珠は、他宗においては数珠と言われ、その用途は、例えば読経の最中に音を立てて揉んだり、
  真言や念仏の回数を数えるのに用いたり、煩悩の数と同じ球数108個にして自分への戒めと
  したりと様々ですが、浄土真宗においては、仏祖の尊前で礼拝する時にかかせない大切な法具
  として常に携帯すべきものです。
  蓮如上人は、念珠を持たずに参る人を誡めて、「念珠を持たぬ人など、阿弥陀さまのご信心を
  いただいたとは思えません。それは仏さまを手づかみにする非礼人であり、親鸞聖人は「念珠
  なしで仏を拝め」と仰せられたことはありません」とおっしゃっています。
Q.お焼香は何のためにするの?
A.お香の歴史は古く古代インドで発祥し、悪臭を防いだり礼拝の時に用いるなどされてきました。
  仏教においても香りを荘厳するという意味で香を焚き、『仏説無量寿経』には、「華を散じ、香を焼きて、これを
  もって回向する(差し向ける)」と説かれ、法要などにあたり沈香などを焚いて香を供えて恭敬礼拝します。
  
  焼香には、沈香、線香、抹香などがあります。
 
    沈香              線香              抹香
  使用するお香に特に決まりはありませんが、長時間の使用なら線香を用いたり、用途によって使い分けています。
  なお、本願寺派では、線香は適当な長さに折って香炉の中に寝かせて供えます。
Q.お仏壇に飾るお花や灯明には、どういった意味があるの?
 
A.浄土真宗のお仏壇は、迷いの世界で苦悩している私たちをお救い下さる阿弥陀如来をご本尊しとて
  安置する場所であり、私たちが心の拠りどころとすべき阿弥陀さまのお浄土の世界を表しています。
  そのお仏壇にお花や灯明、お香や仏飯を供えることを「お給仕」といいます。
  私たちが生活の中でお仏壇の荘厳を整え、お給仕させていただけるというのは、このような仏縁に
  めぐまれ、み仏の慈悲の中に生かされているからであり、お給仕は報恩感謝のあらわれに他なりま
  せん。
  しかも、私が生けた花も、お香の香りも、ろうそくの明かりも、お仏飯も、みんなこちら向きに、
  そのまま仏さまからいただけるのです。 
Q.お仏壇にお供え物をするのは、仏様やご先祖様に捧げるためではないの?
A.お仏壇は亡くなった人がおられる場所という誤った考えが一般化し、うちはまだ死者がいないからとお仏壇を置か
  ない家が多いですが、しかし、浄土真宗のお仏壇はご本尊(阿弥陀如来)を安置する場所であります。ですから、
  亡くなった人がとどまっておられる場所ではなくて、亡くなった人が往き生まれた阿弥陀仏さまのお浄土の世界を
  表わそうとしているがお仏壇であって、仏と成られた亡き人を縁にお念仏を申させていただく場です。
  お仏壇のある家庭では当たり前のように、初物や頂き物などは一旦お仏壇にお供えしてから、仏さまからのお下が
  りとしていただくというのが習わしでしたが、最近ではそういったことを知らないという人のが多くなりました。
  お仏壇にお供え物をするというのは、それをそのまま仏さまのおかげによって私がいただくということです。
  ある方は卒業証書や合格通知などをお仏壇にお供えするそうです。仏さまのお慈悲によって生かさせていただいて
  いることを一つひとつ確認しながら「南無阿弥陀仏」とお礼申させていただける場所がお仏壇なのです。
Q.おりんはいつ打てばいいの?
A.おりんを打つのは、おつとめの句切りをつけるためと、発声の高低の標準を聞くためです。
 
Q.お坊さんや住職さんって何をする人なの?
A.お坊さんになった時、つまりお得度をさせていただいた時に、「僧侶は職業ではない。僧侶という生き方である」
  と教えていただき感銘を受けました。
        僧侶の任務として本願寺派の法規には、「仏祖に奉仕して、自行化他に専念し、この宗門及び本山、
        所属の寺院又は職務に従事する寺院の護持発展に努めなければならない。」とあります。
        「自行化他 (じぎょうけた)」とは、自ら仏道修行して、そこで得たところをもって他を教化するという
        ことですが、親鸞聖人は、善導大師(七高僧のお一人)の言葉をもって「自信教人 (じしんきょうにんしん)
        とお示しくださっています。これは、自ら信じ、人に教えて信じさせるということで、阿弥陀如来
        のご信心を私が疑いなく信じさせていただき、これを人に伝えて共に阿弥陀さまの他力のご信心を
        よろこばせていただきましょうと言うことです。
        これは僧侶に向けておっしゃったお言葉ではありませんが、お寺を護持する住職をはじめ、僧侶は
        率先して手本となるような生き方をしなければなりませんし、それがお坊さんの務めなのです。
Q.お寺って、何のためにこんなにたくさんあるの?
A.お寺は、お釈迦さまの時代に大ぜいの僧侶が住む場所として「精舎」が建てら
  れたことに始まります。
  今でこそ「寺院」といえば大きな伽藍を構えているところが多いですが、宗祖
  親鸞聖人はひとつもお寺を建てられていません。「草庵」とよばれる簡素な家
  で、お念仏のみ教えを説いておられました。
  他宗の寺院は別として、浄土真宗のお寺は、阿弥陀如来のおこころに聞かれた
  門信徒らが、その力を集結して、私たちの進むべき本当の道を聞かせていただ
  くための念仏道場として建てられました。そして、自らがまことのおみのりを
  聞いて、その真実を一人でも多くの人びとに伝えようと「教化道場の場」とし
  てお寺を建て、今日まで護持してくださったのです。
  つまり浄土真宗のお寺は、この私がお念仏のみ教えを聞くためにあるのです。
​再建された三谷草庵
Q.浄土真宗でのお寺には、どうして御守りも御朱印もないの?
A.朱印の起源は、写経料などの受領印であった…など諸説ありますが、その起源は定かではありません。
  それがいつの頃からか、お寺に参って朱印を集めるほど功徳が積まれると考えられるようになりました。
  このように、自分のした行いを善行として、自らの力(自力)をあて頼りにするということは、そんな私を救って
  くださるという阿弥陀如来の力(他力)を不満とし、そのおこころを疑っているということに他なりません。
  真宗門徒は、阿弥陀さまの功徳である南無阿弥陀仏ひとつをいただいて、それを依りどころとして人生を歩ませて
  いただくので、朱印は必要としないのです。
  また同様に御守りや御札など、それらを持ってさえいれば助かるとか守られるといった考えは、仏教には説かれて
  おらず、それらをあて頼りにするのは、なんとも心細いものです。
  私たちは、何かに頼っていなければ生きていかれない弱い存在です。でも、そんな心弱い私であるということを 
  重々承知しているからこそ、「いつもあなたと共にある我が名を称えよ、あなたを決して見放すことのない、辛い
  時も嬉しい時もいつもあなたと共にある我が名を称えよ」と呼びかけてくださっている阿弥陀さま、そのお名前、
  南無阿弥陀仏のお念仏を称えさせていただくことこそ、最も心強い、頼れるべきものなのです。
Q.浄土真宗のお寺に、聖徳太子の掛軸があるのはどうして?
A.今からおよそ1,400年前、聖徳太子が摂政となって政治を行っていた時、「十七条憲法」をつく
  られました。その第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」と仰せられ、仏さまと、その
  教えと、その教えをまもる人びと依りどころとして生きなさいと示されたところに日本仏教は始
  まりました。
  つまり、お釈迦さまがこの地球上にお生まれくださらなかったなら仏教が説かれることはなかった
  のと同様に、聖徳太子がこの日本にお生まれくださらなかったなら仏教が日本に定着することは
  なかったでしょう
  このことから親鸞聖人は、聖徳太子を「和国の教主聖徳皇(訳:日本のお釈迦さまである)」と讃
  えられ、「わたくし親鸞が阿弥陀如来の救いに遇えたのも、聖徳太子が日本に仏教をひろめてくだ
  さったからにほかなりません」と敬われたのです。
  親鸞聖人が描かせたと伝えられる『光明本尊』には、阿弥陀如来から光明が放たれ、その周囲に
  七高僧をはじめ聖徳太子を配して、この中の誰か一人でも欠けたなら、私のところにまでお念仏が
  相続されることはなかったと描きあらわしています。
  しかも、親鸞聖人にとって聖徳太子は単なる仏教の相伝者ではなく、阿弥陀如来の慈悲のおこころ
  から現れ出られた救世観音菩薩として讃仰されていたことから、多くの真宗寺院て聖徳太子の絵像
  を安置されているのです。
Q.浄土真宗のお寺に、お釈迦さまの像がないのはどうして?
A.仏教の祖であるお釈迦様が、浄土真宗の寺院には安置されていません。
  それは、浄土真宗での根本とされる経典『仏説無量寿経』をお釈迦さまが説かれる時、そのお姿が光り輝き始めた
  ので、お弟子の阿難尊者がその理由を尋ねると、お釈迦さまは「私がこの世に生まれた目的は、すべての人を救う
  ために真実の利を恵むことにあり、いまそれが達成されようとしているからである(取意)」とおっしゃり、それ
  から阿弥陀如来のご本願を説かれたのです。
  このことから、お釈迦さまは阿弥陀如来のご本願を説くためにお生まれになったことがあきらかとなり、また同時
  に、のときのお釈迦さまは阿弥陀さまのおこころを我がこころとし、阿弥陀さまとして説法されたことを意味し
  ます。
  親鸞聖人はご和讃に、釈迦さまは私たちに阿弥陀如来のご本願を伝えるため、人間の姿となってこの世に現れ出
  くださった方なのですと示され、このことから阿弥陀如来一仏に帰依することこそ、お釈迦さまのおこころに一番
  かなうことであるとして、浄土真宗の寺院では、別にお釈迦さまを安置していないのです。
  つまり、阿弥陀さまの中にお釈迦さまを収めて恭敬しているのです。
 
Q.人間、死んだらどうなるの?
A.以前、この質問をあるお坊さんにしたら、「死んだ先のことをいくら考えても空想でしかないのだから、これから
  先をどう生きるべきと考えることの方が大切である」と言われたことがあります。はたしてそうでしょうか?
  もし「死」ということが終着点だとすれば、死に向かって生きているということになってしまいますし、いつ、私
  の上に訪れるやもしれない「死」に不安を抱えながら生きていかなくてはなりません。
  そもそも、私たちは何のために生まれたのでしょう? そして何のために生きているのでしょうか?
  それは決して「死ぬ」ためではないはずです。私たちの終着点は、「死」ではないのです。
  人間は、その人その人の「業(ごう)」によって未来の自分をつくっていきます。「業」とは「身口意の三業」とも言
  われ、身体でもって行うこと(身)、言葉にあらわす行為(口)、心に思うこと(意)の三つですが、その行為が
  仏教で示される善い行いならば善い結果が自分に返ってきますし、悪い行いならば悪い結果が自分に返ってくると
  という「因果(いんが)の道理」を説かれます。つまり、自分でつくった原因の結果は自分自身に返ってくるという理
  です。この結果をもって次に生まれる世界が決定されるのです。
  その世界は大きく分けて六つあり、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六つで「六道」といわれ
  ます。今の私の行為が、私の未来の「生」、つまり、この命が尽きた先の世界を決めるのです。
  それがどこになのるか説かれてあるのが仏教であり、それは決して空想的な話ではありません。だからこそ仏教を
  聞かねばならず、そこにしか答えはありません。
  この私の行くべきところをハッキリと見定めてこそ、安心して今を生きることができるのです。
Q.「御同朋・御同行」って、どういう意味?
A.浄土真宗では、御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)という言葉がよく使われます。
  これは、七高僧のお一人である曇鸞大師のお言葉、「(意訳):阿弥陀如来のご本願を信じ、同一に念仏する人は、
  たった一本の同じ道を歩んでいる(仏の子である)がゆえに、たとえ遠く離れていても、南無阿弥陀仏のこころで
  通じ合っている。だから世界中のすべての念仏者は、みな兄弟姉妹といえるのである」」とおっしゃったところを
  受けて親鸞聖人が、念仏する人たちを敬称していわれた言葉です。
  「同朋」とは、同じみ教えに生きる朋(ともがら/仲間)、「同行」とは、同じ道(他力の念仏道)を行く者とい
  う意味です。
  つまり、「御同朋」とは、同じく阿弥陀如来の本願念仏のみ教えを聞く仲間ということであり、「御同行」とは、
  同じく阿弥陀如来の救いに依るお浄土への道を歩む念仏の行者ということです。
  もとより阿弥陀さまは、すべての人をみな平等に救うとお誓いくださっていますから、私たちは阿弥陀さまのお慈
  悲のもとでは同朋であり、阿弥陀さまのお徳をいただくうえにおいて互いに同行であります。
  そして親鸞聖人は、「わたくし親鸞には弟子の一人もなく、みな御同朋・御同行である」と肩を並べてくださった
  のです。
 
Q.私は真宗門徒ですが、四国おへんろにも行きますし、般若心経も唱えます。それはいけないことなのですか?
                                          (Yさんからのご質問)
A.四国八十八箇所巡りは、江戸時代に庶民の間で流行った霊場巡りの一つとして始まったそうで、基本的に仏教では
  ありませんので、お遍路に参加してはダメということはないと思います。
  ただ、その目的は何なのでしょうか?
  もし、現世利益(この世の欲の達成)のためとか、来世成仏(死して後に仏に成る)のために巡るのだとすれば、
  それは大変に大きな誤りです。親鸞聖人はハッキリとこれらを否定されています。
  現世の利益を祈るということは、「因果の道理(自らの行いの結果は、自らが受けていかねばならない)」を説く
  仏教を否定することになりますし、来世の成仏を「南無阿弥陀仏」以外に頼るということは、阿弥陀如来のご本願
  を疑い否定するということに他なりません。
  真宗門徒として、自らの行いを省みて「南無阿弥陀仏」のお念仏をわが口にいただきながら、来世の往生は阿弥陀
  如来にお任せするというスタンスに揺るぎなければ、禁止されるべきことではないと思います。
  また、『般若心経』についてですが、お経をいただくということは、そのお経にはどのようなことが説かれてある
  のか、その内容(仏さまのおこころ)を知ってお唱えすることが大切です。
  『般若心経』は、一般的に広く知られているお経ですが、正しくは『般若波羅蜜多心経』と言って、「般若」とは
  智慧、「波羅蜜」とは徳の完成という意味で、つまり智慧の完成(仏に至る)という意味です。それゆえに、この
  この経文(言葉)を唱えると仏に成ることができると信じられ、また短くて覚えやすいという点から好まれるよう
  になりました。
  しかし、『般若心経』には阿弥陀さまのおこころも、お救いも、一切説かれておりません。つまり『般若心経』を
  好んで称えるということは、この私を救うと誓ってくださっている阿弥陀さまのおこころを跳ね除け、阿弥陀さま
  のお力(他力)を否定しているということです。
  真宗門徒としてお経をいただくのなら、私の救いを説いてくださっている、私のためのお経『仏説無量寿経』・
  『観無量寿経』・『阿弥陀経』をよませていただくべきでしょうし、これらのお経の肝要が説かれた『正信偈』を
  常のおつとめとしていただくべきだと思います。                       (by 香慧)
Q.神社や他宗でお参りする時、私は真宗門徒なので「南無阿弥陀仏」と言ってお参りしますが、それでいいですか?
                                          (Oさんからのご質問)
A.「参拝」という言葉を辞書で引くと、宗教施設などで神や仏や死者を拝む(祈る)行為とありました。
  私も他宗の寺院や神社などに行くことはありますが、そのほとんどは観光目的で、神社や教会で拝んだり祈ったり
  することはありませんし、他宗の寺院を訪れる時も、わざわざその尊前で合掌礼拝するというのではなく、
  「あぁ、阿弥陀さまがはたらいておってくださるのだな~」と感じた時だけ、その尊前である・なしにかかわらず
  お念仏を申させもらっています
  「南無阿陀仏」のお念仏は、祈りの言葉でも呪文でも挨拶でもありません。私のいのちの依りどころなのです。
  ここのところさえハッキリしていれば、時を選ばす、場所も選ばず、いつでもどこでも、私と共にあってくださる
  のが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
  このお念仏を私の口に称えさせていただく時、それが阿弥陀さまの願いにかなって御恩報謝のお念仏となるのです
  から、なんとも有り難いことです。南無阿弥陀仏。                      (by 香慧)
Q.ご質問、お待ちしております!
A.住職 または 香慧がお答えさせていただきます。南無阿弥陀仏。

浪清山 浄願寺

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